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書評

原理的な「礎」――凄まじい知的エネルギーの成果

雀部幸隆著『公共善の政治学』

折原浩著『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か』

『図書新聞』2008.3.15, 1.

橋本努

 

 

 ウェーバー研究の新たな収穫期といえるかもしれない。昨年末に雑誌『現代思想』がマックス・ウェーバーの特集号を組むと、ほぼ時を同じくして、ウェーバーの人格像を刷新する二つの研究、すなわち、羽入辰郎氏の新書『マックス・ヴェーバーの哀しみ』と今野元氏の大作『マックス・ヴェーバー』が刊行された。さらに、佐野誠著『ヴェーバーとリベラリズム』は、ウェーバーの規範理論的見地を鋭く描き出し、松井克浩著『ヴェーバー社会理論のダイナミクス』は、「カテゴリー論文」を読み解くことによって戦後民主主義的なウェーバー理解に批判を加えている。

ウェーバー研究の二人の重鎮、折原浩氏と雀部幸隆氏も、昨年末にそれぞれ刺激的な著作を刊行された。折原浩著『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か』は、ウェーバーにとって社会学そのものが、歴史研究のための基礎学であるとの理解から、「カテゴリー論文」「倫理論文」および「正当性」の概念を検討する。これに対して雀部幸隆著『公共善の政治学』は、ウェーバーの政治理論的主張を現代規範理論のなかに位置づけるという、再構成を企てたものだ。いずれも凄まじい知的エネルギーの成果であり、七〇代を迎えた両氏の旺盛な研究力には、脱帽するほかない。ウェーバー研究をリードされてきた二人に、心から感謝と祝福の意を捧げたい。

およそ自らの研究を歴史に刻もうというのであれば、自己の大半の能力や関心を犠牲にしてでも、一つに専念しなければならない。これはありえない想定だが、もし現在よりも三倍長い人生を送ることができれば、最初の八〇年をウェーバー学説の検討(テキスト・クリティーク)に費やし、次の八〇年を社会理論の新たな刷新に費やす。そして最後の八〇年を歴史研究に捧げるといったことが、すぐれた研究人生と言えるのかもしれない。けれどもそれが不可能な現実において、私たちはそれぞれの研究テーマに二〇年ずつ割り振るというわけにもいかない。折原氏と雀部氏の研究人生はいずれも、自らを第一の企てに限定することで、残りの企てを次世代に託すという原理的な「礎」を指向したといえる。

それにしてもウェーバーは、かくも根源的な学問情熱をなぜ引き出すことができるのか。ウェーバー研究はこれまで、一生を捧げるに足る豊かな価値を提供してきた。折原氏にとってそれは、社会諸科学全体を基礎づけるという野心的な使命であり、また雀部氏にとってそれは、善き政治理念を導くための思想的結晶化の作業であったように思われる。

けれども政治的なスタンスとしては、折原氏と雀部氏はかなり異なることに注目したい。折原氏はこれまで、一貫して戦後民主主義の理念に基づき、事実認定やテキストの正しい読み方を「真理」基準に照らして競い合うという、「討議民主主義」の理想を追求してきた。東大紛争における大学批判、マージナル・マン論解釈を通じた近代的な主体像の提示、ウェーバー著『経済と社会』の再構成作業による真のテキスト読解の確立、そしてまた、羽入辰郎氏とのウェーバー読解対決などにおいて、折原氏はたえず、異質な他者との批判的討議を実践してきた。これほど多くの論争において批判理性を実証した学者は、折原氏を措いて他にいないだろう。

これに対して雀部氏の政治的スタンスは、紆余曲折を経てきた。六九年から七〇年にかけて、雑誌『思想』に二部構成で発表された論文「マックス・ウェーバーのロシア革命像」で、雀部氏はウェーバーのロシア革命理解が空転しているとみなし、この革命に積極的な意義を見出すレーニンを評価した。そして同論文が収められた処女作『レーニンのロシア革命像』(八〇年)を上梓するまで、氏は基本的に、レーニン主義の立場から資本主義を超える生産のエートスを探究したのであった。ところがその後、社会主義の実験の失敗とともに、雀部氏は自らの思想的立場の再検討を迫られる。四〇歳という不惑を過ぎた頃から一〇年近い思想的混迷状態に陥ったというが、その後書かれた『知と意味の位相』は、あたかも青年期のような思想的冒険を企てた書である。そして雀部氏がマルクスからウェーバーへと軸足を移動させて成果を得たのは、ようやく六〇歳代半ばのことで、すなわち、九九年の『ウェーバーと政治の世界』と〇一年の『ウェーバーとワイマール』においてであった。この二書において雀部氏は、戦後民主派の政治的脆弱性を反省しつつ、この立場を乗り越える理念をウェーバーの政治観に求めている。

 カリスマ大統領制と議会民主主義、そして官僚マシーンの最適な組み合わせを追求したウェーバーの政治構想は、実は、アリストテレスやマキャベッリ以来の西欧政治学の正当な系譜、すなわち、憲法構成権力の委任独裁を認める共和主義(したがって下からの民主制の拒否)に属すのであり、またそこには「公共善」と「権力政治」の深い結びつきがある。これが雀部氏の近著『公共善の政治学』の洞察である。戦後民主主義は、「善政」と「権力政」のいずれをも否定して、これに代わる批判的市民の政治を展望した。しかし政治とは、善と権力とのデモーニッシュな交わりであり、啓蒙理性のモデルネを理想視できないと雀部氏はみる。氏の見解は、戦後民主主義を体現する折原氏ともっと争われてもよいのではないか。はたしてウェーバーの政治的エートスとはなにか。それを二人の碩学にもっと学びたい。